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50代、終活をしない・し過ぎないという選択

終活をしないし過ぎない記事アイキャッチ画像ワレ、オモウ。

世の中に『終活』という言葉が浸透しております。

私も生誕から50年ほど経ち、以前より『終活』という言葉に敏感になってきました。

自分のこともありますが、親のこともあります。

今、100均で自分のことをまとめておくノートを買い、書こう……と思ってまだ書いておりませんが。

そんな私の、就活についての想いを書いていきます。

あんのんアイコン 書いたひと(ふゆこ)
50代主婦。40後半で結婚、それから転居数回。

30後半に司書資格、50歳でマインドフルネスセラピスト・瞑想インストラクターアンガーコントロール士アンガーカウンセラー資格取得。

年齢なりに、そして場合によっては年齢気にせず生きる力を身につけたく鋭意努力中。

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終活は必要?

まず考えてしまうのが、必要か不必要か。

私が今現時点、たどり着いているところは、「ほどほどに、必要」という、なんとも当たり障りのない着地点。

遺される人たちが、あんまり困るようでは迷惑かけちゃうので、ほどほどに整理しておくのが良いと思います。

でも、何もかもスッキリさてしまうのは、私はどうかと思うのです。

終活について考えたきっかけ

私が終活について考えるきっかけになったのは、身内が数年で立て続けに亡くなったことにあります。

特に印象に残っているのが、親戚の、子どものいない夫婦。

とても良くしてくれたおじさん、おばさん(叔父叔母ではないけれど、いつもそう呼んでました)。

子どももいないし、医療の役に立ちたい――と、亡くなったあとは献体を希望しました。

 献体とは、医学・歯学の大学における解剖学の教育・研究に役立たせるため、自分の遺体を無条件・無報酬で提供することをいいます。

「自分の死後、遺体を医学・歯学の教育と研究のために役立てたい」とこころざした人が、生前から献体したい大学またはこれに関連した団体に名前を登録しておき(「献体登録をするには」参照)、亡くなられた時、遺族あるいは関係者がその遺志にしたがって遺体を大学に提供することによって、はじめて献体が実行されることになります。

1.献体とは (kentai.or.jp)

そうして、おじさんが先に亡くなったのですが、献体のあと遺族のもとに戻ってくるまでは数年かかります。おじさんの場合、三年ほどかかりました。

とても素晴らしい行為で、これは大切なことだと思います。

おばさんも納得していて、いずれ自分も献体しようと言っていました。

が、おじさんが戻ってくるまで三年。おばさんは、ひとりでずっと待っていました。

そしておじさんが戻ってきて、三年後に始めて火葬して、供養をしたのです。

その時おばさんが、

「やっと、亡くなったという実感がでてきた。ずっとなんだか、遠い病院に入院しているような気がしてて……」

と、呟いたのを強烈に覚えています。

おばさんは、三年間ずっと、悲しむに悲しめず、一人で待っていたんだなぁと思うと今でも切なくなってしまいます。

おじさんは、子どももいないし、奥さんだけだし、残すものも特に持たず、スパッと逝っちまうぞ! って感じだったんだろうなぁと思います。

そして、おばさんがそれから数年後に亡くなったのですが、なかなか片付けが大変でした。(おばさんは、自分は献体するのはやめておくと言っていました)

身内が数人集まって、何日もかけて片付けて。

一人でいたのに、どうしてこんなに荷物が多いんだろうかというくらい、荷物がありました。

ようやく片付けけて、大変なのは大変だったけれど、その後片づけに参加した親戚メンバーでお疲れ様の食事に行き、おじさん、おばさんの思い出話をし、そして中々集まる事のない親戚メンバーの交流を楽しんでいました。

死に支度はどこまでやる?

そんなわけで、色々と考えるようになったのです。

上記のおじさん。おばさん以外にも親戚が亡くなることが続き、本当にたくさんの事を考えました。

それで到達したのが、こちら。

  • お金関係はわかるようにリスト化する
  • 使っていない口座やカードは解約しておく
  • 重要な書類はまとめておく
  • ネットで利用している有料サービスについてもまとめておく(いらないのは解約しておく)

そして、これ。

  • 荷物は片付けすぎなくていい

ということ。

ものすごいゴミ屋敷の場合は困りますが、ごく一般的な家の荷物だったら、迷いなく捨てられるものは捨てて置いて、あとは「減らしすぎなくても良いのではないか」と思うのです。

なぜそう思うのか

なぜ思うのかというと、私の親が高齢になってから長年住んでいた家を引き払い、サイズダウンした部屋に引っ越しをしました。

その時に、ひたすら物を捨てました。

置ける場所がないから、それは仕方のないことです。

でもその時に、「でも、いろいろ荷物あっても、あんたたちが困るからね」と思い出のものも、自分を頑張って納得させて捨てていました。

それは子どもとして有難いとは思うのですが……。

私としては、親が思い出のものを捨てて、お気に入りのものも少なくなった状態で過ごしているのは、とても悲しいのです。

私の親の場合は、本当における場所がないから仕方ないことですが……可能であれば、後々片付けが大変だとしても、思い出のものに囲まれあて過ごして欲しい。

どう処分したらいいかわからない、祖父母世代の白黒の写真の山だって、頑張って整理するから持ってて欲しい。

そう思ったのです。

終活も大事。生きてる「今」も大事

自分が居なくなったあと、遺された人に迷惑をかけないという考えや気持ちはとても素敵なものです。

でも、まだ生きている今、この瞬間だってとても大切なものです。

お金関係がどうなっているのかわからない、重要書類がわからない、あからさまにゴミ屋敷……。

こんなのはさすがに困るので、『終活』としてしっかり整理しておきたいものです。

でも、当たり前だけど死ぬまで生きているし、生きてる今この瞬間はとても大事。

たくさん物を整理して、物を減らして気持ちもスッキリしてより良くこの瞬間を生きているなら、どんどん整理して良いと思います。

でも、そうでないのなら。

ある程度は、物を持っていても良いのではないでしょうか。

亡くなった後、遺された人が遺品を片付けるのも、心の区切りをつける儀式だとも思っています。

そして、面白いなと思うのは、生前から死後、いろいろと世話のかかった人ほど、亡くなった後に会話にのぼる回数が多いことです。

そして、物をたくさん遺して整理が大変だった身内の遺品ですが、使えるものをいくつか貰ってきています。

服、未使用の手縫いの布巾、鞄などなど。

いつかボロボロになったら捨てるのでしょうが、その時きっと「片付け大変だったなぁ、でもこれだけ使ったらおばさんも本望よね」なんて故人を思い出して、その時は心穏やかに処分できるんだろうと思います。

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